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弥太郎の新世界

『目の眼』作家訪問 (1997年8月号)掲載

硯作家 雨宮彌太郎さん - 編集部-
 

ラグビーをやっていてボールをパスされた時、パスで繋ぐか、キックするのか、持ったまま走るのか……。その判断は瞬時に決定されなければならない。その判断の元になるのが日頃の練習であり、経験なのだ。またその積み重ねがあれば体は自然に動いて的確なプレイとなる。

硯制作の際、表われてくる形に対応していかに彫りすすめていくかは、ラグビーの時と同じように体が自然と動いて自分のイメージした形に近づいていく 学生時代はラグビー部に籍を置いていたという雨宮さんは自分の作品を作る時のことを、こう表現してくれた。

ラグビーの話ばかりではなく、雨宮さんの話には演劇や、音楽、舞踏、それも前衛と呼ばれる作家の作品の話題が数多く出てくる。一見、伝統的な工芸品ともいえる硯の世界との接点が無いようにみえるが、実は雨宮さんの作品には、その前衛作品の影響が色濃く出ているのだ。 元禄時代にまで遡る事ができる家業の硯作家という職業を継ぐべきか、否かについてはほとんど悩まなかったという。自然にそうするものだと考えていた。

さらに、自宅にあった画集や図録を見て抽象彫刻をやってみたいと考えていた。だから進学は芸術大学と決めていた。 ところが入学後2年間は抽象彫刻が作れなかった。具象彫刻ばかり作っていた。 「自分の中にその作品を作る必然が無ければ作れないのです。必然性の無い作品は、作っても納得のいくものにはなりませんからね」 3年目に入って、現代音楽、現代演劇、現代舞踏に興味を持ち始めた。そして、そのあり方を自分のやっていることに置き換えてみると考え方が大きく変わって行った。違う視点で見つめ直すことで自分のやっていることが見えてきたという。

ジョン・ケージの「4′30″」に出会ったことも、作品作りに大きく影響があった。音楽は音に耳を傾けるところから始るのだから、表現ということにとらわれず素材に耳を傾けることが第一だと考え、作品作りに方向性が見えてきたという。 だが大学での彫刻制作から実際に硯の制作に取り組み始めると、同じ造形感覚では立ちゆかない。工芸独自の世界に戸惑った。 工芸を一から学ぶことを始めた。そこで今までとは考え方が変っていった。そして新たな方向性を掴んできた。祖父は自然の風物を生かし、父は西洋彫刻を硯に生かした。そして雨宮さんは流れるようなシンプルな曲線を生かす硯という自分なりの作風をあみだしたのだ。

今では実用性を持った形態的にも制約の多い硯の制作にも自由にイメージが広げられるようになった。 家業としての硯を身近に感じ、小学校五年生の時には遊び半分とはいえ古典的な硯を真似て作り上げた雨宮さんにとって、硯は単に墨を擦る道具ではない。もっと象徴的な意味を持っている。

日常的な時間を切り離し、精神統一を図りながら紙に向かう「書」という特別の時間の中で、硯は静謐の空気の中、無我の境地に入り込む舞台装置と捉えている。その舞台装置が純粋であればあるほど、書家の心はより高みに昇華し、よりよい「書」が生まれる。そのための硯であると。そう信じている。 だからこそ雨宮さんの硯は芸術作品のためだけのものではない。そして工芸を超えた作品になっているのである。