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硯匠夜話 雨宮弥兵衛

雨端硯本家
雨宮弥兵衛 (山梨県鰍沢町)
 
硯匠夜話 その一

 <雨畑硯本家・雨宮弥兵衛>は、雨畑石を発見した初代の雨宮孫右衛門によって、元禄三年に創業されました。以来三百年以上にわたり、山梨県鰍沢の地で、製硯の技と匠を伝え続けております。
 視作りというのは一般の人にはあまりなじみのない世界ではないかと思いますが、この連載では、硯を巡る現在の状況や、私個人の仕事を通しての思いなどについて語ってみたいと考えています。

硯作りは石との会話から

 まず初めに、現の製造工程について、簡単に説明しておきましょう。
①選別した石材の表裏を、鏨を使って平らにする。
②鋸で形を取った後、さらにのみで上下両面を削って平らにする。
③大村砥、金剛砥などを用いて正確な寸法に整える。
④彫り―石の内側に輪郭をつけ、のみで墨池と墨道を削って工作する。
⑤磨き―荒目(大村砥)、中目(上野砥)、細目(対馬砥)、人工砥石などを使って磨く。
⑥仕上げ―墨液、漆を薄く塗布して仕上げる。
 以上のようなプロセスで、製硯作業が進められます。彫る時に使用するのみは、以前は木の柄の先に銑鉄の刃を取りつけたものでしたが、最近は多少進歩していて、もっと刃先の硬い新素材の刃物が出ています。しかしなにしろ石を彫るわけですから、すぐに刃先が丸くなってしまいます。そのため、思い通りの仕事をするためには、絶えず刃先の調整に気をつけ、直しながら仕事を進めていかなければなりません。機械化はできるだけ避け、一つ一つ手作業で作られます。手作業とはいっても、むしろ全身で彫ってゆくと言った方がよいでしょう。床に座って肩の骨の下のところにのみの柄を当て、腰を支点にして身体全体で石を彫り進めるわけです。長年この作業を続けると、肩にたこができるほどです。
 人によっていろいろな彫り方があり、いすに腰掛けて彫る人などもいるようですが、私としては、あえて人のやり方を知る必要はないと思っています。人のものをまねすると、どうしてもぎこちなくなってしまい ますし、自分で工夫して考えたやり方が一番自分に合っています。ある意味では、知らないということは幸福です。まず心が安定する。あれもこれもなどという ような態度では、大事なものを見失ってしまうような気がするのです。
 肩で彫っていると、石の中に不純物が混じっていたり成分にむらがあったりするのが、のみを通して触覚で感じられます。彫りながら、石と会話をしているわけですね。なにしろ相手は天然のものですから、質が均一というわけにはいかないし、見た目だけではなかなかわからないものです。以前、これはいい石だと思って十年来大事に取っておいた石がありました。ところがいざ彫ってみたら、いいところは表面から三ミリぐらいで、その下には固くて悪い層が入っていたんです。墨池を彫ろうとしたらもうだめで、がっかりしてしまいました。

硯の肌は赤子の肌

 「いい硯ってどういう硯?」と聞かれると、私はまず、子供のころに粘土細工をしたでしょう、それを思い出 して下さい、と答えます。滑らかで柔らかい、きめの細かい感触、それが推積して固まったのが、硯の材料となる粘板岩です。そしてその中に、少し硬い違う物質、たとえば石英とか鉄鉱石のような固い独立した成分を持つ物質が、銀河のように細かくちりばめられています。これが表面に現われたのが鋒鋩と呼ばれるもので、大根おろしのおろし金ややすりの凸部のような役割を果たしています。硯の素材としては、きめの細かい良質の粘板岩で鋒鋩が均一なものが、墨おりがよく理想的と言えるでしょう。
 昔からよく「硯の肌は赤子の肌」と言われます。赤ん坊の肌のように滑らかて暖かい感じがするものがよいというわけです。暖かい感じを出すためには、材質があまり緻密ではだめ。多少柔らかくて、空気や水分を含んでいなければいけません。ですからよい硯は、長年使っていると表面がすり減ってきます。毎日すって、十年で二~三ミリヘこむぐらいの柔らかさのものがベストです。
 昔の本などを読むと、硯は眼があるものがいいとか、金線や銀線が入っているもの、あるいはおもしろい模様が浮き出ているものがいいなどと書いてあったりしますが、こういったことは眉つばですね。考えてみれば小学生でもわかることですよ。これらは石の中に含まれた不純物なんです。とにかく固い成分ですから、塁をする時非常にじゃまになります。純粋に鑑賞的な価値だけはあるかもしれませんが、こんなものだけをもてはやすなどというのは全く無意味です。
 さて、よい硯について、機能的な面の説明は以上ですが、形・デザイン面ではどうか。現は文房四宝(墨・筆・紙・硯)の中でも装いを楽しむことができるという点では最たるものですから、やはり工芸的価値のあるもの、用プラス美を兼ね備えたものの方がいいでしょう。ただしこの場合の「美」は、自分自身の選択眼で決めることが肝要です。本に書いてあることや人の意見、歴史的な要素などに左右される必要はありません。要は自分が好きか簾いかです。
 そして、気に入った硯が見つかったら、まず先入観を捨てて自分の素直な心持ちで、自分の状態がいい時に、試しずりをしてみて下さい。私のように何十年経験を積んだ者でも、肉眼で見ただけでは、すり具合がわからないものです。ラーメンの食べ比べと同じで、食べてみるまでわからない。自分の手に取って実際に試してみるのが一番です。

自分の価値を大切に

 私が硯を創作する場合に心掛けていることは、第一に誰もが理解できる要素があるということ、第二に現代的であること、そして第三に、何よりも独創的であることです。私は硯を作っていながら今まで中国に行ったことがないし、特に行く必要も感じない。どうも日本人にはオリジナリティーが欠けているというのか、何でもよその国のものの方がいいだろうとか、昔のものを見習うべきだとかいう錯覚があるようです。これがプランド指向にもつながるわけですが、自分自身の判断基準を持たないのは、文化のレベルが低いということですよ。硯一つ取っても、「こうあるべき」というような固定的な考え方はしたくないですね。
 とにかく人生は一回きりなんだから、自分の時計が標準時というような気持ちで、自分の価値観を大事にして生きていきたい。私は日本に生まれた日本人ですから、硯匠という仕事を通じて「日本的なもの」を追求し、新たに創り出していきたいと思っています。

硯匠夜話 その二
鈍斎さんと英斎さん

 新年という節目を迎え、改めて来し方行く末のことなどを考えながら、今回はわが家の代々の先人達のことについて、お話ししてみたいと思います。
 初代の雨宮孫右衛門が雨端石を発見して硯を作り始 めたのが、元禄三年。その項のものも含めて、家には古い資料が長持ちに一つ残っています。代々の中で、特に関係資料が多いのが、鈍斎と号した八代雨宮弥兵衛で、この人についてはさまざまな逸話が残っています。安政六年に時の将軍から硯の原石の採掘許可を得て鰍沢の硯作りを大いに盛んにしたとか、富士川の舟運を便利にするため幕府に陳情して工事をさせたとか、政治的な手腕も持っていたらしい。また、長崎で中国渡来の硯石学を学んだり、私塾を開いて郷里の師弟を教育したりという学者的な側面もあり、甲府城内には「雨宮鈍斎頌徳の碑」というのが建っています。この碑文を書いたのが、元老院議官の中村正直でしてね。甲府の藩校である徽典館の学頭として赴任した時に鈍斎と知り合って、以来一緒に酒を飲んではあれこれ語り合うなど、ずいぶん親しくしていた様子です。
 こんな縁で中村さんは、鈍斎の死後もその孫の十代目弥兵衛(号・英斎)のために硯の推薦文を書いてく れたり、また同志社大学の創立者の新島襄や漢学者の谷口藍田など当時一流の人々を紹介してくれたりしました。英斎は私の祖父にあたりますが、こういったこ とに人格形成上大きな影響を受けたようです。たびたび江戸や京都にも出て多くの文化人と交わり、交友の輪を広げました。英斎の画帳、今でいえばサイン帳のようなものが残っていますが、これを見ると、画家の木島桜谷や野口小蘋など、いろいろな人が書画を寄せてくれているんです。さらりと描いた中にもなかなか味わいのあるものが多く、当時の文人達の遊び心がしのばれます。
 私の家は昔から地主でもないし庄屋でもない。ただ硯作りという仕事を通じて、常に書画や文化・芸術の世界との関わりがあるわけですね。その中でさまざまな人との出会いがあるというのは、大変ありがたいことだと思っています。

父・静軒のこと

 「雨宮弥兵衛」というのは代々わが家の当主が襲名する名で、私の本名は「誠」といいます。実はこの名前の名づけ親は、政友会総裁の犬養毅さんなんです。私達はむしろ、雅号の犬飼木堂さんの方で親しんでいますけどね。木堂さんは書や中国文化に造形が深い方で、もともとは英斎と親交があったのですが、英斎亡き後、その子の静軒の面倒をよく見てくれました。自分の子供か孫ぐらいの年のこの若者に、どこか見どころがあると思ったのでしょうか。硯の箱書きはしてくれる、いろいろな人を紹介してくれる、私を含めて三人の子供の名付け親にもなってくれるというふうで、 静軒にとっては人生の上での師でもあり、かつパトロ ン的な存在でもありました。静軒に向かって、商売を してはいけない、店を持ってはいけない、世間を見ないで馬車馬のようにまっすぐに自分の道を進みなさい。 もし生活に困ったら私が面倒を見ようと、何度も言ってくれたそうです。
 こういった励ましもあったからでしょうか、父の静軒は、中国各地を訪ねて古硯の研究をしたり、東京美術学校(現・芸大)付属工芸講習所でヨーロッパ彫刻の方の技術を勉強したりして、新しい硯作りに目を向けました。家の代々の硯のデザインを見ると、英斎さんの時代まではほとんど中国のものの模倣です。ところが静軒の代で、すぱっと模倣をやめた。よその様式をまねるのではなく、自分で自然の風物を写生して図案を描き、原型を造るという形に切り替えたわけです。 硯の原型を常滑の土を使って作るなんていうことも講習所で覚えたことから工夫したんでしょう。彫刻では油粘土を使うんですが、それだと高価だし、当時は画材店もあまりなくて手に入りませんでしたからね。
 静軒はまた、竹内栖胤さんに絵を学び、図案についてはいろいろとアドバイスを受けていたようです。写生をもとにしたデザインを考えるようになったのも、その影響だったのかもしれませんね。栖鳳さんの図案で父が作った硯というのもあるんですよ。静軒の作品の中に、「濤声硯」といって波の形を立体的に造形した硯がありますが、これにはおもしろい逸話がついています。栖風さんが晩年湯河原の山荘に住んでいた時、父は近くに宿を取って絵を習いに通っていたんですが、ある時栖鳳さんが波の絵を描きたい、しかも海が荒れている時の波を写生するということになったんです。今みたいにビニールなんてない時代ですから、なんとか水を通さないようなもので体をぐるぐる巻きにした先生を大勢の人が輿みたいなものに乗せて、海がちょうどよく荒れている時に連れて行くわけですよ。父もその時ついて行ったんですが、もう相当高齢の先生がそんなふうにがんばってるんだから、いい若い者がただ見てるってわけにはいきません。水をかぶりながら一緒になって写生をして、その結果生まれたのが、この「濤声硯」というわけです。
 人と人との出会いというのは、本当におもしろい。生きている間に誰と会うことができたかということは大きな意味を持っていると思います。親父さんなんかは、まさに人との出合いによって成長しながら自分の道を切り開いてきた人だといえるでしょうね。

先人達が遺してくれたもの

 家には祖父や父の代からの書画の類がいろいろと残っているんですが、多くはお金を出して買ったものではなく、頼んで描いてもらったものや、硯と物交換 したものなどです。私も子供の頃から竹内栖鳳や堂本印象、奥村土牛などの掛け軸や額物が身近にありまして、考えてみればこの点ではずいぶんぜいたくをさせてもらっています。そういったものを季節やその折々の気分によって掛け替えて楽しむというような習慣も、生活の中で自然に身につきましたね。こんなことなども、先人が遺してくれた有形無形の財産といえるでしょう。
 結局、父や祖父、その前の時代の人々から伝えられた硯匠の技や仕事に対する姿勢など、目には見えない積み重ねが自分を育ててくれたのだと思います。よく冗談に、漬物と同じようなもので、上からどんどん押 されているうちに、それなりに味がついてくるんじゃないか、なんて言っているんですけどね。
 ただもちろん、昔からのものを継承するだけでは十分ではありません。英斎も静軒も、先代達がやらなかった新しいことを始めた人でした。私自身も、やはり自分なりのオリジナルなものを創り出して次代へ提示するのでなければつまらないという気持ちで、これまでやってきたつもりです。
 実は今年の二月に、銀座のミキモトホールで、「雨宮 弥兵衛 硯匠三代展」という展覧会を開催させていただくことになりました。十一代目の父・静軒と十二代 の私、そして十三代目にあたる息子の弥太郎、それぞれの作品が展示される予定です。この三代展のために 準備している作品群を見ると、おもしろいことには、父、私、息子と、作風がはっきり違っているんです。静軒の硯が写実的なのに比べて、私のものはごく抽象 的なデザインです。これが息子のものになると、いっそうオブジェに近い感じですね。息子も私と同じように芸大で彫刻を専攻したんですが、硯を作る一方で、野外彫刻やモニュメントの制作をしたり、「すずり石のオブジェ展」という個展を開いたりしています。
 まあ、先人の遺産を受け継ぎながらも、それぞれが生きている時間の中で、精いっぱい創造性を発揮するということでしょうか。そういった成果を今回の作品展で見ていただくことができればと思っています。

硯匠夜話 その三
「用」と「美」のバランスが第一

 今回は、硯のデザインについてお話ししましょう。硯の世界にも、やはり流行というかその時代その時代の嗜好の移り変わりのようなものは、わずかながら見られます。硯を作る側から申しましても、時代感覚を反映した作品を作るように心がけています。昔は雲や竜などの精緻な彫刻を施したようなものがよく作ら れましたが、私は父の作ったような写実的な意匠の硯よりも、抽象的でシンプルなものに力を入れています。 現代の人の感覚に合っているということでしょうか。もっとも、それでも自分は細かい模様のあるものの方が好きなんだという人もいますし、こういった趣味の世界は十人十色の好みがあってこそ、もっと楽しいと思いますがね。硯を使う側と作る側、お互いに刺激し合って新しい硯のかたち、ひいては新しい墨の文化を作っていけたら面白いと思います。
 硯のデザインにおいては、用と美のバランスということが最も大切です。置物やオブジェとは違い、はっきりした用途のある道具ですから、あまり突飛すぎる形にはできません。とにかく墨を磨るところとためるところが絶対必要ですし、色は黒一色。デザイン的には、すごく制約がありますね。パスカルのことばに「真実でもなければならず、かつ面白くもなければならず」 というのがありますが、私はよくこれを硯にあてはめて考えるんですよ。使い心地がよく石質が確かなもので、しかもそこに何か面白味がなければ、ということになるでしょうか。目的に応じて、使い心地とデザイ ンのどちらを重視するかが問題です。

制作の過程

 伝統工芸展などで、年間六回ぐらい展覧会に作品を出品していますが、新しい形態を創り出すのは決して易しくはありません。制作の第一段階は、イメージが浮かぶのを待つことから始まります。三、四日の間はまさにぶらぶらしている状態で、情けないようなもんですよ。いろいろな形が目の前に現われたり、消えたり-‐その繰り返しの中から、次第にある一つの「かたち」が浮かび上がってくるのです。そしていよいよ これだということになると、まず平面図を描き、その原図を基にして粘土で立体的な原型を作ります。 大きさを検討するため、同じものが少なくとも大小二種類以上は必要ですね。こうして、頭の中に浮かんだイメージを実際の形に表わすまでが、だいたい一週間。その後いよいよ、石を選んでゴリゴリ彫り始めるわけですが、今度は技術の抵抗が出てきます。たとえば、実際に作業するとなると特別な道具が必要になって、自分で道具を作らなければならないとか、彫る姿勢にどうしても無理があるとか、そういったさまざまな問題が発生して、なかなか思い通りにはいかないものです。結果的に、最初のイメージの九割ぐらいできれば、まあOKといったところですね。

花びらや貝殻も硯の原型に

 硯の形は、平面的には長方形、正方形、円、小判型、 その他の多角形などが一般的です。私はさらに直線や曲線の組み合わせによる抽象的な形態を作っているわけですが、そういったイメージはどこから生まれてくるのかということをよく聞かれます。もちろん何もないところから自然発生的に出てくるわけではありません。私の場合は特に、自然界に存在するいろいろな物象の断片から形をもらうことが多いですね。たとえば、シクラメンの花びらの一片、割れた貝殻、川原に転がっている石ころの多様な形、あたかも骨のようになった流木の破片、山中で立ち枯れた老木の折れた枝、峡谷で見つけた老樹の曲がりくねって変形した幹や根な ど……。さまざまな連想を呼び起こすオブジェを探してみます。そして偶然に現われた形象を自分の構成に自由に取り入れて、新しい「かたち」を創っていくのです。自然や人工物の形に面白さを見いだしてそれを表現に取り入れるというのは、かつてシュールリアリズやダダイズムの芸術家達が実験してきたことでもあります。
 このように自然の事物からデザインのヒントを得るわけですが、それを作品の中にどう生かしていくかとなると、やはり個人の資質、どんな線や形に心引かれるかということが大きくかかわってきます。あ、こんな形が好きだっていうような感覚ですね。私はもともと木彫専攻で、ここ二十年ほどはずっと山梨大学で彫刻を教えていたのですが、ある時フランスの美術家ハンス・アルプの抽象彫刻を見て、その線や面に対する感覚が自分のものとよく似ているのに驚いたことがあります。今でも年六回の展覧会のうち、三回は彫刻作品を出品しているのですが、そこに現われた造形感覚が、硯のデザインに通じていると言われることもあります。また、学生時代に見て強い印象を受けたのですが、中国古代--夏・殷・周あたりの銅器の非常に簡潔で直線的なイメージなども大変好きですね。

比例と釣り合い

 デザインの基本としては、まず、縦・横・高さの比例が美しくなければなりません。黄金分割には限りませんが、茶碗でも何でも名品といわれるようなものを見ると、その比例がみごとです。そして、直線と曲線の組み合わせのバランス。直線は鋭く冷たく、曲線は柔らかく暖かい。組み合わせは無限にできるはずなのですが、比例や釣り合いがぴたっと決まって、かつ美しいというできばえになるのは、まれなことです。
たとえば、人間の顔について考えてみると、目、鼻、口など、バラバラな要素が適当に組み合わされています。決して左右対称ではありませんが、そのバランスがうまくいくと、何とも言えないいい顔になるわけです。そういったバランスを人工的に作り出すのは非常に難しいのですが、絶えずそれを意識していると、味の素ならぬ「美しさの素」とでもいうようなものが、知らず知らず脳の中に蓄積されて、創造の母胎になるのではないかと思うんですよ。

自然との触れ合いの中で

 これまで具体的なデザインのヒントについて述べてきましたが、私にとってそれにもまして重要なのが、日常的な心の持ちようです。たえず自然を眺め、ゆったりとした気持ちを大事にしたい。以前はずいぶん朝早くから仕事をしたものですが、最近では午前中はお茶を飲みながらぼんやり過ごすことにしています。抹茶やお煎茶をいただいて、お香をたいて、季節季節の掛け軸や庭の様子を眺める。それから本を読んだり絵を見たり、漆器や陶器などの道具類をいじったり… まあ、ままごとみたいなものですね。この間はなるべく人とも会わないし、電話にも出ないようにしています。そして午後は八時ごろまで仕事。テレビや新間はほとんど見ません。マスメディアから得る情報も貴重ではありますが、それによって時間ばかりではなく心まで奪われるような気がするんです。
 私の住んでいる鰍沢のような田舎には、四季折々の昔があります。冬は小鳥のさえずり、初夏には蛙の鳴 き声、盛夏は蝉、秋になると虫の音。自然の音響はいくらあってもやかましくないし、心楽しいですね。それから李節によって変わっていく植物の色や形を眺める。秋も深まると、紅葉の落ち葉が庭に敷きつめられますが、それを踏みしめる楽しみも、また格別です。そういう繊細な自然との触れ合いの中からいろいろなことを学ぶわけです。
 人間大人になると、回りの環境に適応を強いられた結果、ものごとを素直に見られなくなってくるような気がします。創作的な仕事のためには何よりも、常識に縛られない子供のように自由な発想が大切です。そしてそれは、いつでも人生の充実感につながっていると思うのです。(談)

硯匠夜話 その四

 私が新しい硯を創作する場合、たいがいは自分自身が受けた何らかの感動をもとにデザインを考えるのですが、時にはお客様の方から好みを提示され、依頼を受けて作ることもあります。今回は、そういった作り手と注文主との間の交流、道具とそれを使う人とのかかわりあいなどについて、いくらかお話ししてみたいと思います。

硯が結んだ縁のいろいろ

 昭和五十三年頃のある日、硯を作ってもらいたいと言って私を訪ねて来た方がありました。四十五年頃の日展出品作品「大硯」と同じものをという注文です。 まだお若い方で、書や絵をたしなむわけではないが、硯を見ていると何とも言えない心の落ち着きを覚えるとおっしゃるのでした。ところで、この大硯はその名の通り長辺が五十センチメートル以上もある大作で、 おまけに図案構成上縮小して作るということができません。十分に鑑賞するためには十二畳ぐらいの広さが必要だと申し上げましたところ、当時はアパートにお住まいで、とてもそれだけのスペースはないとのことでした。私も仕事ですから、ただ注文を受けてその代金をいただけばいいのかもしれませんが、やはりこれだけ熱心なお客様には本当に納得してもらえる作品を提供したいものです。そこで、別にお気持ちに合うものを考えましょうと、しばらく時間をいただくことになりました。その後五十七年にでき上がったのが、写真の「環池硯」です。三年の留保の後にようやく宿題を果たせたわけですが、大変喜んで下さって、二人のお子さん達に形見として遺したいと同じものをニつお求めになりました。こういった注文はめったにありませんが、苦心しただけ印象に残る仕事になりました。
 しかし、必ずしも依頼主の注文にうまく応えられなかったこともあります。昭和三十年頃のことですが、長野県にお住まいの方から、個人の好みを示されて硯の注文を受けました。ところが当時は私も年若かったせいか依頼主の意図がつかみきれず、なかなかうまく いきません。その年の暮れも押し詰まった頃ようやく1つ作ってお送りしたのですが、気に入られなかったらしく、再度の注文がありました。その後いろいろと考えてみましたが、どうしてもこれはと思えるものができないまま、時間が過ぎてしまいました。そして三年余り経った頃、その方の夫人からお手紙が届いたのです。文面は、主人は亡くなりましたが、貴方の硯を待っておりました、というものでした。結局注文主の期待するような仕事ができなかったということは、専門家として今でも残念でなりません。しかしながら、私の仕事を認めてわざわざ注文してくれる方、また私を励ましてくれる何人かの方々のためにも、ますます努力しなければと、常々思っております。

作る人と使う人

 自分の好みに合わせた硯の意匠を依頼するというようなことは、最近ではあまりなくなりましたが、少し前まではごく普通に行なわれていました。たとえば、父・静軒の作品の中に、梅に鶯をあしらったデザインの石膏製の模型があります。これは、隣町の造り酒屋 ・萬屋醸造店の依頼を受けて作った作品です。この酒屋さんでは昔から「春鶯囀」という名の地酒を造っており、それにちなんだ硯の制作依頼でした。父は何枚ものスケッチを手にご主人を訪ね、意匠についていろいろ話に花を咲かせたようです。かつては地方の酒屋さんには粋な趣味を持った人がいて、こんな味な交流があつたというほほえましいエビソードと言えましょう。
 依頼主からいろいろと注文を受けて満足のいくものを作るのは、なかなか難しいことですが、私は嫌いではありません。自分はこういう用途でこういうものが欲しいんだという人からの注文を受けるのは、普通以上に時間がかかっても楽しいし、私自身の勉強にもなります。自分の好みがはっきりしていて、あれこれ注文をつける人っていうのは、やはり必要なんですね。特にこういう伝統産業の世界では、ものを作る人間と使う人間との交流が、とても大切になってくると思います。いい仕事の値打ちを認めてある程度高くてもお金を出しましょうという人があってこそ、切瑳琢磨の中で技術も進歩するし、後継者も生まれてくるのです。

道具はオリジナルが面白い

 これまで硯の注文のことをお話ししましたが、私自身日常的に使う道具類などは自分の好みでわざわざ注文することがよくあります。たとえば、私は必ず毎朝お香を焚いてお茶を飲みますが、旅行中や山に登る時でもこの習慣は欠かしません。そのため必ず携帯用のお茶道具一式を持ち歩くことにしています。手のひらにすっぽり収まるほど小さい急須と湯呑み茶碗、それらを入れる小型の籠、お香を何本か入れておく容器、布製のお盆などですが、この道具類は、自分で考案して一つ一つ作ったりあつらえたりしたものです。まるでままごとのように見えるかもしれませんが、本当に自分の気に入るような道具類を見つけ、それを使うというのは心を楽しませてくれるものです。人生を楽しむためには、本当に好きなものはオリジナルでなくちゃ面白くない、あまり高価なものは見えないけれど、そういうささやかなものでずいぶん生活を豊かにすることができると思うのです。
 こういった考え方には、父や友人達の影響も大きいと思います。父の静軒は、自分の好きな画家にテーマを示して絵を描いてもらうことがありましたが、そんな場合もしも気に入らなければ、遠慮なく自分の意を伝えて描き直してもらったものでした。父が中年の頃庭の柿の老樹にからまっている木蔦の茂みにキジバトのつがいが巣ごもりをしたのを喜び、写真を撮って、京都の堂本印象先生に絵を依頼したことがあります。それは半年か一年程後にできあがって送られてきましたが、はじめそれを見た父は気に入らず、その旨を先方にお伝えしました。「それでは描き直しましょう」ということになって、描き直していただいたわけですが その作品は十分期待にそうもので、父もさっそく軸装して以後愛蔵しておりました。
 展覧会で見学料を払って鑑賞するのもよいのですが 身銭を切って自分のものにして使用するのが、美がわかるための一番の早道だと、よく言われます。自分の好みを自分の気に入った画家に描いてもらって楽しむというのは最高のぜいたくと言えましよう。ぜいたくといっても、高すぎる自動車などを買うことを考えれば、誰でもある程度できることだと思います。要は、生活のどの部分にポイントを置くかですね。

人と物とのつきあい方

 私が何十年来愛用している急須がありますが、急須が一つ十五万円するというと高すぎると感じられるでしょうか? 私はそうは思いません。毎日使って三年半もてば、一日百二十円でタバコー箱分にもならないではありませんか。そのかわり、そういう本当に気に入った道具が壊れた時などは、かわいがっていた小動物が死んだと同じような感じを受けますね。ただ、 重要なことは、人生においては自分の存在というものも有限で次第に老いて死んでいくわけですから、道具も自分と一緒に壊れていくのが当たり前だということです。私の硯なんかでも、よく「これは宝物ですね。使わずに飾っておかなければ」などと言って下さる方がありますが、私は、そうじゃない、どんどん使って下さいと答えるんです。道具も自分自身も一回限りの生の中でおつき合いし、最後にはお互い消えてなくなるというのが、理想的な人と物との関係ではないかと思います。奥さんだって一緒に年老いていくわけだしね。(談)

硯匠夜話 その五

「古い硯ほど上等」は間違い

 ---唐の物は、薬の外は、みななくとも事欠くまじ。ふみ書どもは、この国に多く広まりぬれば、書きも写してん。もろこしぶね唐土舟の、たやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所狭く渡しもて来る、いと愚かなり。「遠き物を宝とせず」とも、また、「得がたきたから貨を貴まず」とも文にも侍るとかや----
徒然草百二十段のくだりです。いたずらに外国のものや手に入りにくいものを尊ぶことの愚かしさについて兼好法師一流の達見が述べられていますが、私自身、日常生活や仕事の中で、時に似たような感慨を覚えることがあります。たとえば、よく書道用品専門店の店先で、ことさらに中国の古端溪や宋端溪を探し求めている人を見かけます。あるいはまた単に「古い時代の硯はないでしょうか?」と尋ねている人などもおられますが、私にはこれが不思議でなりません。どうもこういった伝統工芸の世界では「古いもの=よいもの」 という固定観念があるようなのです。特に硯においては、中国古硯に対する信奉が顕著です。
私の持論で恐縮ですが、古来我が国においては特有の民族文化が甚だ希簿で、初期には中国、また後の時代になると欧米の影響を強く受け、植民地文化ともいうべきものを形成してきました。そのため自らの感性によってそのもの自体の価値を見定めることができず、 ともすればブランド信仰的な固定観念に基づいた価値判断し頼る傾向があります。硯の場合にしても、古ければ古いほど上等だと考える人が多いようですが、これは全くの誤解、もしくは迷信であるといえましょう。 実際にそういう古い硯を幾つか並べて墨を磨ってみればよくわかりますが硯の墨おりのよさには、古いとか新しいとかいうことは関係がありません。古い時代でも悪い地層に当たったものは当然よくないし、今のものでもよい地層の石で作った硯は上質です。使う人は、自分の感覚でよく確かめ、身をもって覚えていくしかありません。名硯として珍重されている硯をよく見たところ、なんと墨を磨った跡が全然なくて驚いたことがありますが、いくら高価な硯でも、使用しなければその価値はわからないものです。

硯は磨って見るのが一番

 以前、私のところに、ご自分が普段使っている墨をお持ちになって、硯を幾つか試し磨りしたうえで選ばせてほしいとおっしやった方がありました。もちろん一度使った硯をまた商品として扱えるようにするためには仕上げ直しが必要なので、その分の料金は払うとのことです。これなどは、長い目で見れば一番賢い買い方といえるかもしれませんね。実際に磨ってみて自分が納得したものを買えば、選択を誤って後悔することもありません。仕上げ直しの加工料は幾らか余計にかかりますが、まあキャンセル料だと思えばいい。気にいらなければキャンセルするけれど、その場合キャンセル料として何バーセントか支払うという感覚です。

鑑賞用としての硯

 以上、硯の価値について、墨おりのよさという観点から述べてきましたが、実際の用途よりも鑑賞用としての価値を重視される方もいます。外観の美しさということを考えますと、古さが生み出す独特の美しさ、いわゆる「古色美」というものも、重要な要素の一つです。土中に長く埋没していたため表面に化学変化が起こった「土中古」、あるいは、何代にもわたって世に伝えられてきた過程で、手ずれや酸化など様々な要因により微妙な味わいが生じた「伝世古」など、時代を経て古色の備わったものにはそれなりの鑑賞価値があり、これは人の好き不好きの問題といえましょう。
 私自身は、「古色美」とは別に、現代の人の感性に合わせた硯の意匠の開発に努めています。中国古硯の美の他に、日本人の心象に響く近・現代の硯の意匠にも関心を広げていただければ、硯の世界もより奥深いものになっていくのではないでしょうか。 

蓋師、川口さんの思い出

 硯の話題ではありませんが、古いものと良いものとは必ずしも一致しない、ということに関連して、もう一つ別の経験をお話ししましょう。昭和四十八年、私が四十八歳の時、父・静軒に続いて、蓋師の川口利一氏が亡くなりました。蓋師というのは木製の硯蓋を作る職人のことですが、この川口さんは高い技術と立派な人間性とを併せ持つ名工でした。彼には後継者がなかったので、亡くなった後、遺族から「故人が愛用していた木工道具一式を、長年お世話になった雨宮さんにお譲りしたい」というお申し出がありました。私も芸大の彫刻科出身で、木工の道具には多少の知識もあるものですから、ありがたく頂戴したわけです。
 さて、ご厚志に対して些少なりともお礼を致したく、そのためにはまず、この道具類の価値を専門家に判断してもらうのがよかろうと考えました。なにしろあの川口さんの腕を支えてきた道具達です。黒光りした各種の鋸・鑿・鉋などは、故人の心がこもっているせいか、今時の新しい道具よりもずっと上等な品に見えました。さっそく隣町にある刃物屋さんに目立てを頼んだのですが、驚いたことには、この道具類はそれほど質の高いものではないと言うのです。 店のご主人日く「昔の刃物は、それこそ寒風吹きすさぶような粗末な小屋で原始的な製造工程のもとに作られたものが多く、原材料の鉄も入手が困難でしたから、あまり上質なものはできませんでした。それに比べると、現代の我が国の安来のはがねやドイツのゾーリンゲンのはがねなどは、皆精良で質の高い製品です」とのこと。これを聞いて私もなるほどとうなってしまいました。政宗の名刀の物語などからの連想で、つい古い刃物の方が今のものより立派だと思い込んでいたことに気づいたのです。しかしまたそれと同時に、この道具類を駆使してすばらしい蓋の数々を作り出してくれた川口さんの技の見事さに、改めて感服せずにはいられませんでした。客観的にはすぐれたものでなくとも、道具と人とが一体となったことで、あのような名技が生まれたのでしょう。ものを見る目、使う心について、考えさせられる話だと思います。

自分に合った硯を選ぶ

 とかく希少価値のあるものというと、実際以上にありがたく感じられるもの。特にそれらが権威を伴っていれば、なおさらのことです。しかし私は常々、できるだけそういった外面的なことがらには惑わされず、事物のありのままの姿を見て、その価値を判断したいと考えております。これは硯を選ぶ場合にも当てはまることです。墨おりのよさ、磨り心地、磨った墨の細かさ、石質、デザインなど、硯を見るポイントは様々。多くの人がよいと言っているからではなく、自分の感覚で自分に最も適していると感じたものを選び、末長く愛用していただきたいものだと思います。

(日貿出版社 季刊水墨画より)